タシェル

<始まり>12/12
 まだ日も高い午後。
 眩しい日差しの中、暗い面持ちで一人、温泉へと向かって歩くシャナをじっと見つめる目があった。
 野球帽を深くかぶって表情を消した、12、3歳の少年。
 影の中でも光るオレンジ色の瞳がやけに印象的だ。
「ふぅん…」
 誰も立ち入らない一角で、少年が意味ありげに笑う。
「背後ががら空きじゃん……弱くなったね……シャナ……何が原因かな……?」
 その口調は疑問形ではなく、何か楽しんでいるようでもある。
 不意に何かを感じたのか、シャナが立ち止まった。
 探るような目つきですばやくあたりを見回す。
 視線の止まった先に、少年はいた。
 にこにこしながら少年は彼女に歩み寄った。
「お久しぶり……シャナ」
「───なぜお前がここに居る……タシェル」
 咎めるような響き。鋭い目は容赦なく少年を断罪する。
「遊びに来たんだよ。誰かさん、一度も帰ってこないしね」
「本国の方ではアイランが必死になって探していたぞ」
 揶揄を込めたタシェルの台詞に眉をひそめつつ、詰問の口調で問う。
「こちらに来るならば一言そう言えばよかろうに」
「それじゃ面白くないじゃん。家出ってのは行き先が分からないから楽しいんだよ?シャナ」
 楽しそうにオレンジ色の瞳が光る。
 シャナは溜息を吐き、少年を見下ろした。
「相変わらず……手のかかる奴だ」
「うん、手がかかるよ。アイランじゃ物足りなくてさ」
「───シャイレンドルがああなった今、お前はアイランの後継者だ。───分別はつけろ」
「───そう言うけどさぁ、ちゃんと肉体を持ったアイランが居るなら、おいらたち、お払い箱じゃん?」
 重たい言葉をあっさりと茶化す。シャナは眉をひそめた。
「───そんなことはない。あの肉体がどれだけ持つか分からないのだから………」
 溜息を吐き、タシェルから視線を外す。
 にやっとタシェルが笑った。
「ねえ、シャナ。……何か悩み事でもあるの?」
「ん?……なぜそう思う」
「そりゃー分かるよ……こんなに気が弱いからね……」
 目を眇める。光り輝かんばかりの黄金の気を纏っていたかつてのシャナの記憶と比較すれば、明らかにトーンダウンしている。
「ふぅん……好きな人いるんだ……悩んでるのはその人のこと?……それとも自分のこと?」
「───タシェル……勝手に人の心を読むなと言ったであろう?」
 だが、痛いところを衝かれ、動揺が走る。
 タシェルは地面から浮き上がり、ふわふわとシャナの目線まで浮揚した。
「───やめちゃいなよ、そんな男」
「!」
 とっさに振り向く。オレンジに燃える瞳がシャナの視線を捕らえた。
「やめよ!……我には効かぬぞ」
 そう言いながら、視線をはずせない。シャナの表情に焦りが浮かぶ。
「そぉ?……今のシャナになら効くと思うけど?」
 くすくすと嗤いながらタシェルは続ける。
「やめちゃいなよ。あんな男。忘れちゃえよ……昔のシャナに戻りなよ。……俺の好きなシャナにさ……」
「やめ……ろ……」
 目の前の少年を払いのけようとしたシャナは、既に己が術中に落ちていることを知った。
 ───体が……動かない……。
「馬鹿な……」
「だから言っただろ?……今のシャナになら効くってね」
 まだ幼さの残る両手でシャナの頬を挟み込み、目を覗き込む。
「やめろ……タシェル」
「忘れてしまえ……あの男に関わる一切のことを……忘れろ」
 オレンジの瞳が煌めく。吸い込まれるように見つめていたシャナは、激しい目眩と共に足元にぽっかり大きな穴があいた錯覚にとらわれた。
「!」
 反射的に目を閉じる。
 自分の中から何かが闇に落ちていくのが解る。それが何なのか……既にシャナには解らなかった。


「……ナ……シャナ?」
 誰かが呼んでいるのに気付き、ようやく目を開ける。
「ん……?」
 激しい目眩に伴う頭痛が去らない。
 頭を振りつつ、身を起こした。
 どうやら倒れていたらしい。地面の冷たさを感じる。
「どうしたんだ、こんなところで倒れているなんて。……調子が悪いのか?」
 そこには心配そうに覗き込む男の姿があった。
 淡い金髪に、薄い色の瞳をした、白人男性。
「うっ……」
 男の姿が目に入ったとたん、割れるような頭痛に襲われる。
 倒れかける体を、男が支える。
「大丈夫か!」
「……大丈…夫…だ」
 顔をしかめながら、シャナは応えた。
「頭が痛いのか?」
 冷やりとした手が額に当てられる。
「熱はないようだが……家に戻って休んでいる方が良い」
「いや……それほど…ひどくはない。……ところで…そなた…誰だ……?」
「何……?」
 男が怪訝な顔をする。シャナはしばらく男を見つめていたが、やはり分からない、といった顔で首を傾げた。
「……我を知っている……ということは……錬金研のメンバーか?……一般の生徒は我を知らぬ筈…だからな……しかし……そなたには見覚えがないのだが……」
「何を……言っている……シャナ」
 男の表情が凍り付いて見えた。
「俺が分からないのか……?」
 腕を掴む男の力に眉をひそめつつ、シャナは答えた。
「───済まないが覚えがない。初対面だと思うのだが」
 躊躇のない、しかも容赦のない答えに、男は溜息を吐いた。
「本当に……覚えていないのか……」
 シャナの他人を見るような目つきに、諦めて手を離す。
「ともかく、礼を言う。ありがとう」
「───いや……それには及ばん」
 男は硬い表情のまま、シャナが立ち上がるのに手をさしのべた。
「───温泉に行くところだったのか?」
「ああ、そのつもりだが」
「───俺も行くところだ。一緒に行っても良いか?」
「構わぬが……?」
 妙な奴だな、と男を見上げる。
「───名乗っていなかったな。俺はユッシ。ユッシ=コスケンニエミという」
「よろしく、ユッシ殿」
「ああ」
 挨拶を交わしながら、暗澹たる面持ちで男はシャナを見つめていた。


 温泉に着くと、すでに数人の錬金研メンバーがいつものようにカウンターで話をしているところだった。
 シャナは戸惑うことなくカウンターに真っ直ぐ歩み寄り、いつもと変わらぬ挨拶を交わす。
 それを背後で見ていたユッシは、深く溜息を吐き、カウンターに近寄った。
「……よう」
「ごきげんよう、ユッシ御兄様」
 故あってユッシが兄役を務めている真夜は柔らかく微笑んで挨拶を返す。
「やぁ、ユッシさん」
 カウンターでバーテンダーを務めている三年生の菅原もにこやかにユッシを迎えた。
 他のメンツにも適当に愛想を返し、ユッシはシャナとは少し離れたところに腰を下ろした。
「どうかなさいまして?」
 いつもと様子が違うことに目ざとく気付いた真夜が心配そうに声を掛ける。
「…………喧嘩したのか?」
 菅原の言葉が素通りする。
「いや……違います」
 菅原の問いにかろうじて押し出すようにそう応える。
 ───一体何が起こったというのだろう、シャナの身に。
 少なくとも昨日の夜まではいつもと変わらなかった。
 朝、別れてから倒れているシャナを見つけるまでの間に、一体何があったのだ………?
 ───俺を忘れてるなどと。
「……ユッシさん……」
 菅原が真顔になる。
 深く溜息を吐き、ユッシは首を振った。
「大丈夫ですの?ユッシ御兄様」
「……いや……大丈夫だ」
「……大丈夫というお顔ではありませんわ、ユッシ御兄様」
「…………何かあったのか?」
「いや……」
 どう説明すればいいのか、言葉が見つからない。
 かろうじてそれだけ言い、溜息を吐いてシャナを見やる。
 ユッシの視線に気がついたのか、彼女が不意に振り向いた。
 視線が絡む。ずきんと胸に痛みが走る。
 ユッシは耐え切れずに目を伏せた。
 シャナは怪訝な顔でしばらくユッシを見ていたが、不意に立ち上がると近寄ってきた。
「───隣、構わぬか?」
「……ああ」
 少し体を向けて、シャナを迎える。
「…ごきげんよう、シャナさま」
「今晩は、シャナさん。何か飲む?」
 二人の様子をうかがいつつ、それぞれに挨拶を交わす。
「ああ、ありがとう、菅原殿。……そうだな、テキーラサンライズを」
「了解。ユッシさんは?」
「……そうだな、俺もテキーラサンライズにしよう」
「了解」
 そう応えて菅原はカウンター内で作業を始めた。
「……先程は世話になった、ありがとう。ユッシ殿」
「いや……当然のことをしたまでだ。……しかし、あんなところで何をしていたのだ?シャナ」
 すると、シャナは溜息を吐いた。
「……それが覚えておらぬのだ。倒れる前に何をしていたのかもおぼろげでな……この我が忘れることなどありえないのに……こんなことは初めてだ」
「ふむ……頭痛と目眩の方はどうだ?もう治まったのか」
「……いや、まだだ。だいぶやわらいではいるのだがな……ここにいると気分は良いのだが……」
「……お大事に、シャナさん」
「……そうでしたの……お大事になさって下さいませ、シャナさま」
「ああ、ありがとう、真夜殿、菅原殿」
「お待たせ、テキーラサンライズ」
 カクテルグラスを二人の前に置く。
 口々に礼を言い、グラスを取り上げた。
 シャナが軽くグラスを持ち上げて乾杯の仕種をする。ユッシも真っ直ぐシャナを見つめながら同じ仕種を返した。
「具合が悪いなら回復の湯に入ったらどう?シャナさん」
 心配げにシャナの様子をうかがいながら菅原が口を開いた。
「そうだな……」
「その方が良いな。少しは頭痛もやわらぐだろう」
「ああ……そうしよう、ユッシ殿。……しかし……そなたと話していると初対面という気がせぬな……」
 何かを懐かしむような目でユッシを見ながら、シャナはつぶやいた。
 その台詞をユッシは複雑な思いで受け止める。
「……初対面?」
「……シャナさま?」
 怪訝な表情で同時に二人が口にする。その意図が汲めず、シャナは首をかしげた。
「何か妙なことを言ったか?」
「……いや……気にするな」
 応えたのはユッシだった。
「ふむ……」
 妙な違和感に戸惑ったのか、シャナはそれ以上言わず、グラスを空けた。
「ごちそうさま、菅原殿。……さて……回復の湯を使うことにしよう」
 立ち上がる。が、ふと足を止めて首をかしげた。
「……どうかしたか?シャナ」
「いや……いつか誰かに同じことを言ったような気がしてな……」
「同じこと?」
「ああ……気のせいやもしれぬ……それももう、覚えておらぬが……」
「……」
 ユッシのグラスを持つ手が止まる。
 しばらく考え込んでいたが、やがてシャナは首を振って溜息を吐いた。
「……詮無いことだ。では、失礼する」
 立ち去るシャナの背を見つめて、ユッシは一息に酒を飲み干した。
「───どういうこと?ユッシさん」
「……俺にも分かりません、菅原さん」
 菅原の問いにユッシは力なく首を振った。
「分からないって……」
 怪訝そうに菅原が繰り返す。ユッシは逡巡の後、口を開いた。
「───シャナが……」
「シャナさまが?」
 促すように真夜が口を挟む。
 もう一度深く溜息を吐いて、ユッシは搾り出すように言った。
「今のシャナは…………俺を覚えていない」
「……冗談、じゃあないよね」
「……信じられません。……わたくしにはいつもと同じように見えますわ」
 二人の視線がシャナの背に向けられる。
「俺も信じたくはないが………事実だ」
 彼女の目つきを思い出し、溜息をつく。
 まるで……そう、初めて会った時のごとく、冷たい目。
「シャナの身に何が起こったのかは、俺にも解らない……だが……」
 ───今までのこと全てが夢幻だったとは思えない。……何かがあったのだ、今日。
 ───そしてそれがシャナの意志に基づくものでないのならば……。
 無意識に拳を握り込む。瞬間、殺気が漲る。
「……」
「……ユッシ御兄様」
 心配そうに見守る二人に気付いて、殺気を散らした。
「……俺は…大丈夫です。菅原さん、真夜。……少なくとも今はまだ」
「…わたくしにできることがございましたら、何なりとおっしゃって下さいませ、ユッシ御兄様」
「ボクに出来ることはないけど……。記憶……早く戻るといいね」
「…ありがとうございます」
 グラスを空け、立ち上がる。
「俺なりに調べてみるつもりです。…では」
 二人に背を向けて温泉を後にする。ふつふつと沸き上がる殺気を抑えながら。


「ふぅ……いい湯であった……」
 シャナが更衣室から姿を現した。
「お元気になられまして?シャナさま」
 真夜はにこやかな笑みで彼女を迎えた。
「ああ、真夜殿。……ここの回復の湯にはずいぶんと助けられておるな」
「それはようございました」
 真夜に笑みを返し、シャナはカウンターに腰掛けた。
「……無茶はしない方がいいよ、シャナさん」
「そうだな……気をつけるようにしよう、菅原殿」
 ───しかし……何をしようとしていたのだ、私は。記憶がないなどとありえぬのに……。
 急に黙り込んだシャナの表情を伺いつつ、真夜が口を開いた。
「頭痛の方は治まりまして?シャナさま」
「……多少は、な。───目眩の方は治ったようだが」
 苦笑してシャナは額に手をやった。脈打つような痛みが断続的に襲っている。
「……頭痛薬をお分け致しましょうか?」
 真夜の申し出に、シャナは首を振った。
「いや……以前にも言ったと思うが、薬の類いは効かぬ体質でね……気持ちだけありがたく頂いて置こう」
「そうでしたわね……わたくし、忘れておりましたわ、シャナさま。……お役に立てず、申し訳ありません」
「いや……気になさるな、真夜殿。───そのうち、治まろう」
「……そうですわね……そうだとよろしいですけれど……」
 少し不安げにシャナを見ながら、真夜はつぶやいた。
「……あまり、過信しないほうが良いと思うよ」
 それまで黙ってやり取りを聞いていた菅原が口を開いた。
「過信、と?菅原殿」
「……シャナさんは、すぐ無理するからね……」
「我が……?……そうであったかな……それほど無理をしたか……?」
 シャナが首をかしげる。菅原は密かに溜息を吐き、言った。
「……心配する人がいるからね」
「心配か……気に留めておこう」
 そう言うと立ち上がった。
「さて……少々早いが我も休むとするかな・・・では」
「……ごきげんよう、シャナさま」
「……お疲れ、シャナさん」
 どこか不安げな表情の二人を訝しみながらも、シャナはログハウスへと消えた。
「……本当に、覚えていらっしゃいませんのね……」
 シャナの消えた扉を見つめて、真夜が口を開いた。
「ユッシさんも気の毒にな……」
「どうして……このようなことに……」
 菅原は力なく首を振った。
「ボクにも分からないよ……(シャナさんの事情が分からないし……)」
「……わたくしに出来ますことがありましたら……よろしいのですけれど……」
 真夜が辛そうにぽつりと呟くと、菅原は苦笑いしながら応えた。
「それはボクも同じだよ……ボクにも出来ることはない……」
「………お辛いと……」
「……そうだね。しばらく静観するしかないかな……」
 深く溜息をつき、扉を見つめて黙り込んだ。
 ───二人を見詰めている目がある事を、誰もまだ知らない・・・。


<波乱>12/13
 寝覚めの悪い朝だった。
 妙に重たい頭を振りつつ、無意識の左手が空の寝床を探る。
 その仕種にはたと気がついて、シャナは首をかしげた。
 自分の左手が何を求めているのか、分からぬげに。
「まあよい……起きるか」
 上半身を起こす。
 今日はなぜか自分の髪すらも重たい。
 いつものように結い上げるのを断念し、元の服を身につける。
 着替えも何もない部屋。
 妙に寒々しいログハウスの中を、シャナはやはり違和感を覚えながら見渡した。
「……必要なものを揃えねばならんな……」
 確かいろいろあったはずなのだが、妙だな、と首をかしげる。
「まあ……良いか……と……アイランは本土だったな……」
 ちょっと困惑した様子で眉をひそめる。
 自分が金を持っていないのは昨夜確認済みだ。
「仕方ない……またアイランのものを借りるか……」
 本当はあまり借りたくはないのだが、と呟いて。
 窓からは表の喧燥が響いてくる。
 すでに温泉場には錬金研のメンツが顔を出しているようだ。
「顔を出しておくかな……」
 どうせログハウスへの出入りは丸見えだしな、と溜息を吐き、シャナは部屋を出た。


 カウンターの付近には、予想通り昼に集まるメンツが顔を出していた。
「ごきげんよう、諸氏」
 いつものように口々に挨拶を交わす。
「ごきげんよう、シャナさま。お加減はいかがですの?」
 真夜がちょっと心配そうな顔で尋ねてくる。
「ああ。もう良いようだ。頭痛もせぬしな。心配してくれてありがとう、真夜殿」
「あれ〜、調子が悪かったの?シャナさん。風邪でも引いた?」
 錬金研ではホムンクルス作製の第一人者とも言える左海涼太郎が目ざとく口を挟む。
「少々な……風邪ではないと思うのだが」
「……お大事にね〜」
 強力なPKの持ち主、御堂美知佳が心配そうに言う。
「ありがとう、美知佳殿。まあ、無理はせぬよ」
「こんにちはぁ、シャナ先輩。サンドイッチたくさん作りましたからどうぞ〜皆さん」
 にこにこしながら大皿に持ったサンドイッチを持って厨房から出てきたのは、神族の末裔だという、涙月薫子だ。
「涙月サン、ありがとう。頂くね」
 カウンターの中から菅原が応じる。
 そう言えば、とシャナも小腹が空いていることに気付く。
「我も貰って良いか?薫子殿」
「ええ、どうぞ〜。たくさんありますからいっぱい食べてね〜」
「それでは遠慮なくいただこう、薫子殿。……では何か飲み物を煎れようか?」
「ああ、じゃあ、コーヒーでも煎れようか?いる人は?」
 菅原がシャナの言葉に反応する。
「ああ、済まぬな。菅原殿」
「あ、わたし珈琲がいいな〜、え〜じ」
 熱心なアルケミストである中谷愛里が応える。
「私にもコーヒー下さい、菅原先輩」
 サンドイッチをぱくつきながら、左海が手を挙げる。
「了解。あとの人は〜?」
「あ……わたくしはお茶の方が……」
 真夜が少し申し訳なさそうに口を開く。
「ああ、茶ならば我が煎れよう。……何が良い?真夜殿」
 シャナはそう言うと腰を上げ、カウンターの内側に入った。
 手慣れた手つきで食器棚からカップとポットを準備するシャナを見つつ、真夜が口を開いた。
「……名前を忘れてしまったのですけれども……先日煎れていただきました、香りのとても良いお茶がいいですわ、シャナさま」
「ふむ……そういえばそなたはあの香りが気に入っておったな。……では、ジャスミンティーにしよう」
 棚からジャスミンティの茶葉を取り出し、手際良くお茶の準備を始める。
「他にジャスミンティがいる人はあるか?」
「あ〜、わたしジャスミンティがいいですぅ〜」
 にこっと可愛い笑みを浮かべて薫子が応じる。
「美知佳にもジャスミンティ下さい〜」
「了解した、薫子殿、美知佳殿」
「えーと、シャナさんはコーヒーで良いの?」
 手際良くコーヒーを入れて菅原が問う。シャナは首を振った。
「いや、我もジャスミンティにしよう。済まぬな、菅原殿」
「ああ、気にしないで、シャナさん。じゃあ、珈琲は三人分でいいかな……」
 そう言いつつ、菅原は珈琲を注ぎ分けた。
「コーヒーお待たせ。えーと愛里と左海サンとボクの分だね」
 菅原はカップをカウンターに置き、自分もカウンターに回った。
「ありがと、え〜じ」
「ありがとうございます、菅原先輩」
「お待たせ、ジャスミンティだ」
 各人に配り、シャナも席に戻った。
「わーい、ありがとーシャナさん」
「ありがとう、シャナさん。いい香りだね〜」
「ありがとうございます、シャナさま」
 カップを受け取りながら、秘かに真夜は溜息を吐いた。
「さて、サンドイッチをいただくとしよう」
 大皿の一切れに手を延ばす。
「美味しいですわ、薫子さん……羨ましいですわ、お料理がお上手で」
「ほんとに美味しいよね〜。薫子さんお料理上手だから〜」
「ああ。……本当に旨いな」
「……そういえば、シャナさん、ユッシ君と喧嘩でもしたの?」
 サンドイッチを頬張りつつ、左海が思い出したように尋ねた。
「我が?ユッシ殿と?何故」
 左海の発言の意図が分からず、シャナは首を傾げた。
「だって……ログハウスから出てきたじゃん?わざわざログハウスに寝泊まりしてるってことは、そうじゃないの?」
「……喧嘩は良くないよ〜」
 美知佳が諌めるように口を挟んだ。
「……」
 菅原は何か言いたげに左海を見た。が意に介さず、彼は続けた。
「もしかしてシャナさんも別居?ゆんちゃんみたいに」
「別居?……言いたいことが分からぬ、左海殿。……我は元々ログハウスを住まいにしているが?」
「……シャナさま……」
 溜息を吐いたのは真夜だった。
「あれ〜?シャナさん、コスケンニエミくんの部屋に引っ越したって聞いてたんだけど、違うの?」
 愛里は不思議そうにそう言い、コーヒーカップを取り上げた。
「……ボクもそう聞いたけどね……(事情を知っていても何も言えないんだけどね……)」
 恋人の一言に内心苦笑しながら菅原が相づちを打つ。
「私もそう聞いてますけど〜」
 ジャスミンティーの香りを楽しみながら、薫子も首をかしげる。
「我が……ユッシ殿の部屋へ?……なぜ越さねばならぬ?」
 シャナは至極真面目な顔で問い返した。
「なぜって……とぼけちゃって〜。これ以上言わせる気〜?シャナさん」
「……とぼけているつもりはないのだが、左海殿」
「そもそもなんで呼び方変えたの〜?シャナさん。前は和泉さんに遠慮してたんだろうけど、遠慮する相手、いないよ〜?」
「わずか殿?……何か関係があっただろうか?我と」
「シャナさま……(そこまで忘れておいでですのね……)」
 当惑したシャナの様子がとぼけているように映るのだろう。
 さすがに左海の機嫌が悪くなる。
「……やめた。なんで私がらぶらぶな二人の説明をしなきゃならないんだよ。……ユッシ君と二人で仲良くやってなよ〜」
「……機嫌を損ねたなら謝る。……だが、本当に分からないのだ、左海殿」
 カップを持つ手を降ろし、済まなそうに詫びる。
「……シャナさま……」
「真夜殿……?」
「……いえ……何でも……ありませんわ……」
 声はかけたものの、どうしていいか分からず、真夜は顔を伏せた。
「……ユッシ殿とは昨日初めて会うたばかりのはずだが……?」
「まだとぼけるつもり?……毎夜毎夜らぶらぶなとこ見せ付けてくれてるくせに〜」
 むっとして左海が応える。
「またまた〜悪い冗談でしょ?シャナさん」
 愛里はコーヒーを飲みつつ言った。
「……本気?シャナさん」
 美知佳は首をかしげて尋ねた。
「……我は嘘や冗談はつかぬ」
「……マジで分からないの?」
 これはどうやらただ事ではない、と察知して真顔で聞き直した左海に、シャナは肯いた。
「……どういうこと?」
 愛里も顔色を変える。
 シャナは首を振った。
「……我には何とも言いようがない。知らぬものは知らぬ、としか言えぬ」
「じゃあ……ユッシ君のこと、ぜんぜん覚えてないんだ……?」
「そうだ。知らぬ」
「……シャナさま……」
 辛そうな表情で真夜が呟く。菅原は密かに溜め息を吐き、首を振った。
「……どうして?何があったんですか?」
 薫子も心配そうに声をかける。それにもシャナは首を振る。
「……真夜ちゃんとえ〜じは知ってたの?」
 二人の様子に気付いて愛里は尋ねた。
「……昨日会ったときに、ね。愛里」
 気まずそうに菅原は応えた。
「ええ……わたくしも昨日シャナさまにお会いしましたから……」
 辛そうにそう言い、真夜はシャナを見つめた。
「……みんなのことは覚えてるの?シャナさん」
「ああ、美知佳殿。……少なくともここにいる者については覚えているな。自分のことも」
「なんでユッシさんだけ……?」
「……分からぬ。……そなたらの話が本当だとすると……我は記憶を失っていることになるのか?」
「……嘘なんか言わないよ、こんな時に」
「……どうやらそうみたいだね……」
 菅原が重たい口を開く。
「……我が記憶を失うことはありえないことなのに……」
 暗澹たる面持ちでシャナが呟く。
「じゃあ……アイランさんのことは?」
 愛里が恐る恐る尋ねた。
「アイラン?……ちゃんと覚えておるよ」
「アイランさんが肉体を得た経緯も?」
「……おぼろげながらな」
「その時に……ユッシ君が木場上さんに頼み込んでアイランさんの肉体を作ったことも?」
 左海の横やりに、シャナは驚きを見せた。
「……ユッシ殿……が?」
 ずくん、と頭に鋭い痛みが走る。
「……覚えて……いらっしゃいませんのね……」
 シャナのその表情を見て、真夜がやはり、と呟く。
「……ユッシさんが悪魔に体を乗っ取られてここで暴れまわったことも、覚えてない?」
 観念して、菅原はそう尋ねた。
「悪魔に……?」
 頭の痛みが増す。
「そのあと、ユッシ君と恋人同士になったことも?」
「……(言ってしまったか……それを聞けば後が辛くなるだろうと思ったから黙っていたのに……)」
 菅原は溜息を吐き、冷め切ったコーヒーを一気に飲み干した。
「恋……そんな馬鹿な」
 左海の言葉に唖然としてシャナは呟いた。
「シャナさま……」
「信じられぬ……あり得ぬことだ……」
「……でもほんとだよ〜」
「この我に恋人だと……?」
「毎夜ここにきてはあつあつぶりを披露してくれてたよ。二人で……」
「左海サン、それ以上は……」
 諌めるように菅原は言い、首を振った。
「そん……な……馬鹿な……」
「……シャナさま……(何も……できませんのね……わたくし……)」
 溜息を吐いて、真夜は目を伏せた。
(───アイラン・悪魔・ユッシ殿・恋人・ユーラ殿・悪魔・身体……)
 いくつものキーワードが脳裏をぐるぐると回る。
「……どうしたの?シャナさん。顔色真っ青だよ?」
 美知佳が声をかける。
 その声に皆はっと顔を上げた。
 シャナは脂汗を額に浮かせて頭を押さえていた。
「すま……ない……頭……痛……が……」
「シャナさま!」
 真夜は慌てて自分のハンカチでシャナの額をぬぐった。
 手を当ててみるが、熱があるわけではない。むしろ冷え切って冷たいぐらいだ。
 心因性の……おそらくは記憶を取り戻しかけての頭痛だろう。
「何もお考えにならないで……心を楽にして下さいませ、シャナさま」
「……すまぬ……」
 搾り出すようにそれだけ言い、シャナはカウンターに肘をついて体を支え、目を閉じた。
 温泉場の入り口方面から足音が聞こえる。
 間の悪い時に、と、ちらとそちらを見た菅原は苦虫をかみつぶす。
「……よう」
「コスケンニエミくん……」
「……ユッシ先輩……」
「……どうかしたか?」
 皆の反応が妙なことに気付き、視線を巡らせる。
 声を聞いてシャナは無理矢理顔を上げた。
「……ユッシ殿……」
「いけません、シャナさま。ご無理は……」
「む……どうかしたのか?シャナ」
「……ユッシさん」
 菅原はそれと分からぬように首を振ってみせる。
 シャナは真夜の制止を振り切り立ち上がったが、頭痛のせいか身体がよろめいた。
 真夜が手を貸そうとするより早く、ユッシは駆け寄ってシャナの体を支えた。
「どうしたのだ、シャナ」
「ユッシ……」
 ぶれる視界に色素の薄いユッシの姿が幾重にも映る。
 ずきん、と割れるような痛みがシャナを襲う。
「く……」
 強烈な目眩に目を閉じてうめく。そのままシャナの意識は闇へ落ち込んでいった。


 ユッシはぐったりした腕の中のシャナを抱き留め、顔を覗き込んだ。
「シャナ?シャナ?!」
 軽く頬を叩いてみるが、全く反応はない。
「シャナさま!」
 真夜が駆け寄る。
「……医療モジュールに運び込んだ方がいいんじゃない?ユッシ君」
 後ろから左海が覗き込む。
「ですが……医療モジュールでは記憶までは……」
 困惑顔で真夜が応える。
「……シャナさんに医療モジュールが使えるのかな〜?」
 美知佳がちょっと考え顔で呟く。
「そ……ういえばそうですわね……」
「……今まで使ったことがないからデータもないしか……点滴も打てないだろうね」
「……」
 ユッシは黙ったままシャナを見つめていた。
 意識を失ったシャナの顔はひどく憔悴して見えた。
 たった一日前まで、何事もなく共に過ごしていたのが嘘だったかのように。
「……とりあえずログハウスに寝かせておいた方がいいんじゃない?」
「…そうしよう」
 愛里の提案に肯き、ユッシはシャナの体を抱き上げ、ログハウスへ向かった。


 ユッシの姿を見送り、残された者達は顔を見合わせた。
「…一体どうしたんだろね……シャナさん」
 愛里が最初に口を開いた。
「記憶喪失なんて……」
 溜息を吐いて真夜は眉を顰めた。
「……頭を強く打ったとか?」
 愛里の言葉に苦笑混じりで菅原が応える。
「いえ、それらしい外傷はございませんでしたわ」
「うーん、じゃあ薬とか?」
「……シャナさまは確か薬が効かない体質だと伺ったことがございますわ」
「……薬って……愛里……」
 菅原が言葉を濁して苦笑する。
「それって……誰かにやられたってこと?中谷さん」
 美知佳が何気なく呟いた言葉に場が凍った。
 それは菅原が飲み込んだ言葉でもあった。
「誰かって……何」
「シャナさんの記憶喪失が誰かの仕業だってこと?」
 左海が聞き返す。美知佳は苦笑した。
「……中谷さんが薬って言うからそう思っただけだよ〜左海さん」
「……言われてみれば、そうだね〜」
 薫子も肯く。
「……他人に大人しく薬を嗅がされるようなシャナさんじゃないと思うけどね……」
 菅原は苦笑して呟いた。
「でも……最近シャナさん、元気なかったよ?」
「……そうですわね……」
 美知佳の言葉に真夜は溜息を吐いた。
「でもさ、何の得があってシャナさんの記憶をいじるって言うの?……そもそも、シャナさん、ここの学生じゃないんだし、ここに出入りしてる錬研のメンツくらいしかシャナさんのこと、知らないと思うよ?」
「……誰かの仕業だと決まったわけじゃないよ、左海サン」
 諌めるように菅原は言った。
「ただ推理してるだけじゃん。……何も決め付けてるわけじゃないよ?菅原先輩」
「……でも、自分で好き好んで記憶喪失になるような人はいないと思うよ、え〜じ。それにシャナさん、コスケンニエミくんといる時本当に嬉しそうだったしね。なおさら記憶喪失になりたいなんて思わないんじゃない?」
「……まあ……そうだけどね……」
 恋人の言葉のさりげない過去形に苦虫をかみつぶす。
「となると、やっぱり……」
「いや……だから事故という可能性もあるのでは?」
 ともすれば故意説に流れがちな場の雰囲気を感じて何とか無難な方向へと意見を流そうと試みる。 「事故ってえ〜じ、あんなに作為的に記憶喪失になれるものなの?」
 きょとんとして愛里がたずね返した。
「そうだよね〜なんか、ユッシさんのことだけ忘れてるみたいだし」
 ちょっと首を傾げて美知佳がうなずく。
「外傷でも薬でもない作為的な記憶喪失って……暗示か何かかなぁ……」
「暗示……ですか……」
 左海の言葉に真夜が呟く。
「問題は、暗示がシャナさんに効くかどうかだけどね」
「……ここで論じていても始まらないよ」
「……な〜んか否定的だね、菅原先輩」
 コーヒーを飲み干し、空のコップを流しへ運びつつ、菅原は応えた。
「……否定しているわけじゃないさ……」
「……そうですわね……(ここにいても何も出来ませんもの……)」
 呟いて、真夜は立ちあがった。
「サンドイッチご馳走様でした、薫子さま。……お先に失礼いたしますわね」
「ああ、お疲れ、真夜サン」
 洗い物を片付けつつ菅原が挨拶を返す。
「あ、私も葵ちゃんにおべんと届けてこなきゃ。行きますね〜」
「ボクもそろそろ…」
 真夜がきっかけになって、皆それぞれ思い思いの方向に散っていく。
 一部始終を見つめていたオレンジの瞳が楽しそうに笑った。
(ふぅん……あのおにーさんは結構鋭いところ読んでますね……まぁ……楽しませてもらうとしましょうか……)


 眠るシャナの枕元に座り、ユッシは昼間のことを思い出していた。
 何がシャナに起こっているのか。それは昼に行った悪魔召喚でもはっきりとは捕らえられなかった。ただ、やはりシャナの意思によるものではない、ということだけは間違いなかった。
「タシェル……と言ったな」
 それが、己の得意とする術で悪魔アガリアレプトを使い、出た答えだった。
 たしか聞いた覚えのある名前だった。……以前、シャナから聞いたのだったか……。
 ───何が目的なのだ、一体。
 ───シャナの記憶を奪うなどと……。
 ───たとえリウフェンさんの……シャナの係累だとしても……許せぬ……。
 ふつふつと怒りが湧き上がる。拳を握りこむ。
 シャナが時折うめき声をあげる。
 脂汗を浮かべ、苦しげにうめくシャナの額の汗を拭う。
 窓から差し込んでいた夕日も落ち、闇の帳が下りる。
 ユッシは立ちあがってシャナを起こさぬようにランプをつけ、席に戻った。
「ん……」
 うめいてシャナが身じろぎする。
 まぶしそうに薄目を開けるシャナを覗きこんで、ユッシが声をかけた。
「済まん、起こしてしまったか」
「ああ……ユッシ殿……」
 上体を起こそうとするシャナに手を貸す。
「もう頭痛や眩暈はないか?」
「ああ……今はない」
「熱もないか?」
 すいと手を伸ばし、シャナの額に手を当てる。瞬間シャナは身を堅くした。
 それを察して、口元に苦笑が浮かぶ。
 ───まるで、最初に戻ったようだな……。
「ふむ……熱もないようだな」
「……迷惑をかけてしまったな……」
「迷惑ではない。気にするな。……何か食べるか?」
「ああ……ありがとう」
「了解した」
 ユッシがログハウスのキッチンへ向かう間にシャナはベッドから立ちあがり、身なりを整えた。
 しばらくの沈黙の後、シャナはキッチンに立つユッシに声をかけた。
「ユッシ殿……」
「何だ?」
「……我がそなたの恋人であったと言う話は……本当なのか……?」
 その一言にユッシは思わず手を止めた。かしゃん、と食器の触れる音がする。
 その様子に、シャナは深く溜息をついた。
「我が……そなたと共に暮らしていたと言うのも事実なのだな……?」
 無言で立ち尽くす。その背中は肯定したも同じだ。
「……信じられぬ……」
 首を振りつつ、シャナは再びベッドに腰掛けた。
「……お前が気にすることではない……」
 そう、呟いて、ユッシは作業を再開した。
「……気にせぬと思うのか?そなたは」
「……お前が何も覚えていないなら……言わぬほうが楽だろうと思った。……ただそれだけだ」
 感情を押し殺してそれだけ搾り出す。
 それ以上互いに何も言わず、しばらく沈黙がその場を支配した。食事を作る金属音だけが冷たく通りすぎる。
「……信じられぬ……」
「……信じなくとも良い」
 足元に視線を落とし、呆然とするシャナにそう言い、ユッシは出来あがった朝食を盆に載せて差し出した。
「大した物ではないが」
「……済まぬ……」
「……」
 何かを言いかけたが、思い直してその言葉を飲みこみ、シャナが食事を終えるのを待った。
 痛いほどの沈黙に、シャナは何度目かの溜息をついた。
 それに気がついてか、ユッシが口を開いた。
「……気にすることはない。……お前が知らぬことを押し付けるつもりはない」
「だが……」
 片付け終わって、ユッシはようやく振り向いた。
「お前の信じるように生きていれば良い」
「……ありがとう……済まない……」
 シャナはそういい、目を閉じた。
「時に、シャナ。……タシェルと言う名前に記憶はないか?」
 いきなり関係のない話を振られ、シャナは目を上げた。
「タシェル?……ああ、アイランの弟にいるが、それがどうかしたか?」
「そうか……では、記憶違いではなかったのだな」
 深く溜息をつき、ユッシは目を閉じた。拳を握る。
 シャナが怪訝そうな目を向けてくる。
「どんな奴だ?そのタシェルと言う奴は」
「……なぜそんなことを聞く?」
「いや……少々気になっただけだが」
「……まあ、よいが。腕白者で力があるゆえ、手におえぬ。……私も本国にいたときにはずいぶんと手を焼かされたものだ」
「……それで?どういう力の持ち主なのだ?」
 次第にユッシの気配が冷えていく。
「かなり強い眼力の持ち主だ。まあ、邪眼と言っても良かろうな。シャイレンドルも邪眼の持ち主だが、あれよりはタシェルのほうが強いやも知れぬ」
「邪眼……か。たとえばどんなことが出来る?」
「そうだな……暗示はもちろんのこと、人を操り人形のように言うことを聞かせることもできる。意識を奪うことなどは容易だろうな。……シャイレンドルの邪眼は直接人に害を及ぼすが、タシェルの力は人に操られていると悟らせずに操る。その点が最も違う点かな……」
「操られていると悟らせずに……」
 繰り返し呟く。シャナは頷いた。
「力の使い方を誤まればとてつもない恐怖となる。……自分が行動しているのが本当に自分の意思から出た結果に基づいているのか、それとも他者に操られているのか分からないのだからな……」
 溜息を一つ。ユッシも頷いた。
「お前でも対抗できないほどの力なのか?」
「……さて、どうであろうな。本国にいたときには私のほうが勝っていたが……」
「成る程な。……そいつが今どこにいるか知っているか?」
「いや……本国にいるのではないか?……我は当分会っていない気がするが」
「本国か……」
「詳しくは知らぬが」
「ふむ……」
 黙りこんだユッシに、シャナが口を開く。
「何かやったのか?それとも……何か聞いたのか?」
「いや……ちょっと気になったことがあっただけだ」
 それ以上言いたがらないユッシに、仕方なく口を閉ざす。
「……外が賑やかなようだな」
「ああ……皆が集まってきているようだ」
「そうか」
 ベッドから立ちあがる。
「大丈夫なのか?」
 心配そうに言うユッシに、シャナは微笑みを返した。
「大丈夫だ。もう頭痛も眩暈もない。……皆も心配しているだろうからな」
「まあ……そうだな」
 扉を開けるシャナに続いて、ユッシもログハウスを出た。

「こんばんはぁ!ユッシ先輩!シャナ先輩!」
 目ざとくこちらに気がついたのは小さい体ながらパワフルな弓削楓だ。
「ごきげんよう、諸氏」
 いつもどおりの挨拶。
 昼間会った面子が心配そうにこちらを見守っているのがわかる。
「もう大丈夫でして?シャナさま」
「無理しちゃだめだよ〜シャナさん」
「あ、こんばんは〜シャナさん、倒れたんだって?大丈夫?」
 昼間のあの場にはいなかったはずの池田七海が寄ってきて心配そうに顔を覗きこむ。
 倒れたことはもう皆に知れ渡っているのだろう、その他の者も一様に口々に見舞いを呉れる。
「心配をかけて済まぬな」
 シャナは苦笑しつつ礼を言い、カウンターに腰掛ける。
「もう大丈夫?シャナさん」
 カウンターの中でシェーカーを振りながら菅原が声をかけてくる。
「ああ、大丈夫だ。……心配をかけたな」
 ユッシも隣に腰掛けた。
「でもあまりお顔の色がすぐれませんわ……ご無理なさらないでくださいませね」
 真夜も心配そうにこちらをうかがう。
「ああ。ありがとう、真夜殿」
 一人紅茶をすすっていた沢村が、こちらに目を向ける。
「……?何か?沢村殿」
 視線に気付いてシャナが振り向くと、沢村はもの言いたげに一瞬口を開いたが、思い直して首を振った。
「いや……何でもない」
「ふむ……?」
 首を傾げ、視線を外す。
「珈琲でも入れるか……飲むか?シャナ」
 腰を上げ、ユッシがカウンターの内側に入る。
「ああ、頂けるか?」
「無論だ」
 薬缶を火にかけ、珈琲の準備をはじめる。
 シャナはその様子を物珍しそうに見つめた。
 そんな二人の様子を横目に、菅原は自分の飲む酒の準備を始めた。
「でもほんと、顔色青いよ〜?シャナさん。ほんとに起きて来て大丈夫なの?」
 七海が寄って来て心配そうに言う。
「そーですよぉ!無茶したらだめですぅ!ユッシさんが心配しますのぉ!旦那さんに心配かけちゃ」
 楓の言葉に苦笑を浮かべて彼女を見やる。
「そうだよ。せっかくの美人が台無しだよ〜」
 お酒を飲みつつ美知佳も口を挟む。
「ありがとう……しかし、そんなに顔色が悪いか?」
「ええ……」
 ためらいがちに真夜が頷く。
「シャナさんもともと白いけど、今日はいつもに増して青白いもんねえ」
 カウンターの愛里が真夜の言葉にうなずいて付け加えた。
「そうか……?……ふむ……」
「ほら、珈琲だ」
 入れたての香りと共に、ユッシが珈琲を手に席に戻ってきた。
「ありがとう、ユッシ……いい匂いだな」
 カップを受け取り、両手で包み込むようにして香りを楽しむ。
「本当にどこも辛くないのか?」
 やはり心配そうなユッシの言葉に、目を上げる。
「ああ。頭痛もないし眩暈もない。多少だるいような気もするが、気にはならぬ」
「ならば良いのだが、無理はするな。辛いならそう言って欲しい」
「……分かった、心がけよう」
「あ……れ……?今、呼び捨てにしなかった?シャナさん」
 愛里が首を傾げてそう言った。
「え……?」
 一瞬何について言われたのかが分からず、きょとんとして愛里の顔を見つめる。
「そう言えば……そうですわね……」
 真夜も驚いたようにシャナを見る。ほんの少しの希望の光が垣間見えたかのように。
「え……」
「自分で気がついてないの?シャナさん。今コスケンニエミくんのこと『ユッシ』って呼び捨てにしたんだよ?」
「……そう……だったか……?」
 カップを置き、驚いた表情で愛里を見る。
「シャナ……もしや……記憶が……?」
 思わずユッシは立ちあがった。が、シャナは済まなそうに首を振った。
「いや……」
「……そうか……」
 再び腰を下ろすユッシに、心のうちで済まぬ、と詫びる。
「無意識の内に呼びなれた名前で呼んだんだね、きっと。……大丈夫だよ。きっと思い出すよ」
 励ますように愛里が言う。シャナは薄く微笑んで頷いた。
「そうですわ……きっと元に戻りますわ」
 シャナの手を包み込んで、真夜が祈るように語りかけてくる。
「ありがとう……アイリーン殿……真夜殿」
 ―――これほど人に想われたことはなかったな……。
 目を閉じれば、波のように寄せてくる皆の想いを感じることができる。
「……やはり……」
 ユッシの呟きが耳に入って、ふと目を開けた。
 見れば、一人、拳を握ったまま怒りをたぎらせているのが分かる。
「……心配だよね……」
 誰かがやはりぽつりと呟いた。
「……ユッシ……殿……」
 視線に気付いてユッシが顔を上げる。殺気が霧散する。
「ユッシさん……?」
 菅原がその気配を察して眉を顰めた。
「……済まない……」
 自然と口をついて出る、謝罪の言葉。
 ユッシは溜息をついた。
「お前はいつも謝るな……」
「……そう……だったか……?」
「ああ……記憶があろうとなかろうと、変わらぬのだな……お前は。……お前に怒っているのではない」
 苦笑交じりに言い、シャナを見つめる。
「では……何故怒っているのだ?」
「……お前を害したものを許せないからだ、シャナ」
 表情を引き締めて、ユッシは応えた。その言葉に奇妙な表情を返す。
「自分のことでもないのに、か?」
「……そうだ」
「……何故それほど怒れるのだ。……我のことなど放っておけば良かろうに」
「だめですぅ!そんなこと言っちゃだめですぅ!シャナ先輩!」
「ああっ、そんなこと言っちゃいけませんっ」
 桜田門と楓が同時に口にする。
「……楓殿、桜田門殿」
「……楓君……」
 沢村が苦笑を浮かべて彼女を見ている。
「……いや、良い。弓削君、桜田門君」
 表情を幾分固くして、ユッシはシャナに向き直った。その両肩に手を置く。
 一瞬の軽い抵抗をいなして、まっすぐ見つめる。
「……シャナ……俺がこれほど怒っているのは、お前が……俺にとってそれだけ大事だからだ。……たとえお前が俺を忘れていようと、それは変わらない」
 視線が突き刺さる。思わず目を逸らした。
「……離して…くれ……」
「……ああ。済まない」
 シャナの言葉に幾分ショックを受けたようで、ユッシは黙り込んだ。
「それにしても……どうすれば治るんだろ……」
「そうだね〜……」
 七海の言葉に、美知佳が頷く。
≪治りませんよ、そう簡単にはね……≫
 誰かがそう言った気がした。
「ん?」
「え?」
「……今のは……?」
「誰か、何か言ったか?」
「いや?」
 口々に騒ぐ。
「これは……」
 眉を顰めてシャナが口篭もる。
「あ、そう言えば忘れてた」
 愛里はそう言うと、カウンターに入り、ごそごそと何やら取り出して来た。
「はい、これ」
「ん?」
 差し出された袋を何気なく受け取る。
「何だ?それは」
 ユッシも横から覗きこむ。
「何?愛里?」
 横にいた菅原も不審そうに恋人に尋ねる。
「シャナさんとコスケンニエミ君がログハウスに引っ込んだ後で来た人に預けられたのよ。シャナさんに渡してくれって」
「……錬金研のメンバーからか?」
 ユッシがたずねると愛里は首を振った。
「私も見たことのない人だったよ?コスケンニエミ君」
「……ここのメンバー以外、シャナのことは知らないはずだが」
「もしかしたらクラスのメンバーかも知れぬ。……もともとアイランと一体だったときはシャナと名乗っていたからな」
 シャナはそう言い、袋を開けて中のものを取り出した。
「これは……!」
 出てきたのは白い一本の羽だった。
「まさか……お前の羽ではないのか!?」
「……そのようだな」
「なんでこんなものを……?」
「いつの間に……」
「……これを持ってきた奴のことは覚えているか?中谷さん」
 ユッシが詰め寄る。が愛里は頭を振った。
「それがよく覚えてないのよね〜……なんかオレンジ色のイメージだけあるんだけど……」
「背の高さや年のころも覚えてないの?愛里」
「うーん……そうねえ……」
 頭をひねって思い出そうとする。
「もしや……」
「他の者は見ていないのか?その者を」
「うーん、私以外誰もいなかったから、見てないんじゃないかな?」
 愛里が応える。
 二人の会話をよそに、シャナは羽を光に還元して己の身に取り込んだ。
「まさかな……」
 苦笑する。
「何がまさかなのだ?シャナ。……心当たりがあるのか?」
「いや……或いはと思ったのだがな……」
「……タシェルだと?」
 心当たりの名前を口にする。シャナがかすかに頷いた。
「だが、こっちに来ているとは聞いていない」
「お前が知らないだけかもしれないだろう?」
「……そう言うことも、あるな……」
≪ふふふ……≫
 誰かが笑った気がした。
「誰……?笑ったの」
 不気味そうに七海が言う。
「え……?」
「誰も笑ってないよ……」
「こんな時に笑えるわけないじゃん」
 左海も応える。
「じゃあ……一体……」
「念話……か?」
「頭の中に聞こえてくるね〜」
「……気のせいではないな」
 シャナはたちあがり、気配のある方へ向かった。
 そのあとをユッシもガードするようについていく。
「……いるのだろう?タシェル」
 植え込みの影にぼうっとオレンジ色の気配が現れる。
 透き通った人の姿が植え込みの上に映し出された。
≪正解。よく気がついたね≫
「何……あれ。透けてるよ……」
「あう……幽霊さんですか……」
「ああ!あんな感じの人だった!そういえば!」
「いや……念だけ飛ばしているのだろう。……本体は遠くにいるはずだ」
 ざわめきに答え、歩を進める。
 そのシャナを制して、一歩前にユッシが歩み出た。
「ユッシ……?」
 シャナを背にかばうようにして、身構える。
「お前が……やったのか。シャナを……」
 ぼんやりとした人影が次第にはっきり輪郭を取り始める。
 その表情がにやりと笑った気がした。
≪さてね?≫
「……何が目的だ」
「ユッシ…」
 押さえていた殺気が溢れ出す。思わずシャナは一歩あとずさった。
「ユッシ御兄様……」
「ユッシさん……」
≪あんたには関係ないだろ?≫
 冷たく返る答えを無視してユッシは歩み寄った。
「……答えろ」
≪無駄だよ。ここには実体はないからね≫
「何故ここにいるのだ、タシェル」
 ユッシの背から問いかける。苦々しくタシェルは吐き捨てた。
≪シャナがここにいるからだろ≫
「……やはりシャナが目的か」
 ずい、と距離を縮める。
「……我が原因なのか」
 ぽつり、とシャナが呟いた。
「下がっていろ、シャナ」
 ユッシが言う。
≪シャナがそんな男に引っかかるからさ≫
 タシェルが笑う。
「お前には関係のないことだ」
 返答しかねているシャナを尻目に、ユッシが答える。
≪あるさ。あんたに惑わされてるシャナを解放したかったんだよ≫
「……シャナが俺に惑わされていると、何故お前に分かる。お前のわがままでシャナの記憶を操作しただけではないか」
 ユッシの周辺の温度がどんどん低下していく。
≪分かるさ。あんたと出会ってからのシャナは以前のシャナとは比べ物にならないほど弱くなってるじゃないか≫
 はっと顔を上げたのはシャナのほうだった。
「私が……弱い……?」
「だからといってお前がシャナの記憶を操作して良い理由にはならん!」
≪……理由ならあるさ。こんな弱いシャナなんて、おいらの知ってるシャナじゃない。だから、あんたの記憶を消して、おいらの知ってるシャナに戻したんだよ≫
「……シャナ自身を無視してか」
 声から怒りが伝わってくる。
「“今ここにいる”シャナの人格を無視してか!」
 右手に力が集まる。己の怒りを乗せて、ユッシは幻影めがけて冷気を放った。
 周囲が白く凍る。
≪無駄無駄、おいらはここにいないんだぜ≫
「……貴様だけは許さん」
 目に殺意が灯る。
 呪文を口に上らせ、冬の精霊達を使役する。
「我が敵の本体を探り出し、我が前に引きずり出せ!」
 主の命を受けて、精霊は夜の闇へと消えていく。
 タシェルの幻影が心なしか薄くなった気がした。
「……この手で引き裂いてくれる……」
 狂気にも似た怒気と殺気が渦巻く。
≪ふぅん……意外なこと出来るんだねぇ……≫
 影が揺らめく。上空へと舞い上がる。
≪さすがのおいらも他人が召喚したものを従えることは出来ないからなぁ……今日のところは引っ込んどいてやるよ≫
「逃げても無駄だ!」
 宙の影めがけて冷気を放つ。
 思わずシャナはユッシの放つ冷気に踏み込んでいだ。
「止めてくれ!タシェルを殺してはならぬのだ!」
 冷気が全身を包み込む。凍り付きそうになるほどの冷気を、己の火の氣で押し返す。
 ユッシが冷気をゆるめる隙に、タシェルの影が掻き消える。
「あっ、消えた……」
 修羅場の緊張に口をつぐんでいた温泉場の誰かが呟いた。
 振り向き、タシェルの影が消えてしまったことを確認して、ユッシは気を収めた。
「……何故……シャナ……」
 狂気の色が一瞬にして消え、振り返ったユッシは困惑の表情を浮かべていた。
「お前は……分かっているのか?!自分が何をされたのか」
「……分かっている……つもりだ。だが……タシェルを亡き者にされては……困るのだ」
「……シャナ……」
 向き直るユッシに、シャナは顔をそむけた。
「済まない…………だが……奴の想いも分かるのだ……かつて居場所を与えられ、今またその居場所を奪われた……焦りをな……」
「……」
 思い当たることがあったのか、ユッシはしばし黙り込んだ。
「お前がそういうならば……手加減はしよう。だが……いかに子供とはいえ、己のしたことの意味がわからぬ歳ではあるまい。……それ相応の報いは受けてもらわねばならん」
 怒りのこもった声。
「……済まぬ……」
「何故お前が謝る。……お前が被害を受けたというのに……」
「私は……全てに責任があるゆえ……」
 その言葉にユッシの声がさらに不機嫌になる。
「お前が……どれほどのことを背負えると思っているのか」
 はっと顔を上げると、ユッシは険しい表情をしていた。
 伸ばしかけた手を握り、一つ溜息をつくと視線を外した。
 そのまま、踵を返して温泉場を出て行く。
「ユッシお兄様……」
「……騒がせて済まなかった。……私も失礼しよう」
 誰に言うともなくそういうと、シャナもまたログハウスへと消えた。


 沈黙のまま二人を別々に見送った一同の中で、最初に口を開いたのは七海だった。
「……何かあったの?」
 シャナが倒れたことしか知らなかった七海が首をひねる。
「ああ……まあ、ね」
 曖昧に笑って菅原が言葉を濁す。
「ユッシ君とシャナさんが別居してるんだよ」
 左海が答える。菅原はカウンターの隅の沢村にちらりと目をやった。沢村は薄く笑っているようだった。
「へ?シャナさんとこも?」
「それは違うだろう?左海サン」
「一緒に暮らしてないのは事実だから間違ってないよ?」
「……けんかでもしたのかなぁ……」
「けんかはだめです〜!」
 七海と力いっぱい主張する楓に苦笑して菅原は口を開いた。
「違う違う」
「なんだかね、記憶をいじられたみたいなんだよ、シャナさん」
 アイリーンが答える。
「記憶?」
「シャナさんの?」
「……シャナ君のか?」
 傍観していた沢村が驚いたように聞く。真夜は頷き、目を伏せた。
「……信じられないな」
「記憶をいじられるなんて……考えただけでぞっとしますわ……」
 身震いする真夜に菅原も頷いた。
「じゃあ、さっきのオレンジ色の人がやったの?」
「……多分ね。本人がそう言っていたから、そうなんじゃない?」
「……それでユッシ君があれほど怒っていたのか……」
 溜息とともに沢村はつぶやいた。
「シャナさん本人が覚えてないのがなおさら、ね……」
「じゃあ、どうにもならないの?」
 七海が聞く。菅原は肩をすくめた。
「さてね……。人間の記憶なんて曖昧なもの、もし消されてしまったのだとすれば戻せるとは限らないからね……」
「でも、シャナさんは人間じゃないよ?」
 左海があっけらかんと言う。
「……だからなおさら想像がつかないんじゃないか」
「消えたとは限らないのだろう……?」
 沢村の問いに真夜は軽く首を振った。
「……分かりませんわ。でも、医研で調べれば、もしかしたら何か打つ手があるかもしれませんけれど……」
「今信じているこの瞬間の記憶が本当のものだという確証はないけれどね……」
 左海が言う。
「……そうだな。たとえば今ここにこうしている今の自分の記憶が他者によって与えられた偽の情報だとしても、それを偽と判断する術はないのだろうしな……」
 淋しげに笑う、沢村。
「じゃあなに?今自分が認識している状況が、本当の情報じゃないってことになるの?」
「……そういうこともありうるってだけだよ、愛里」
「それほど人間の記憶は曖昧だと言うことだ」
「……じゃあ、シャナさんの記憶も戻らない可能性が高いんだ?」
 恐る恐る七海が口を挟んだ。
「……一概にはなんとも言えないよ」
「……つらいです……」
「……そんなの、だめなのですぅ……」
 桜田門と楓がつらそうに言う。
「……そうならなければいいね」
 菅原は心の底から祈りながら言った。


 夕刻。
 誰もいなくなった温泉場に、オレンジ色の影が揺らめいた。
 半透明の影の存在のまま、タシェルは興味なさげにあたりをぐるっと見回す。
 人の気配の無いだだっ広いその場所は、まるで人の存在しない異空間のようだ。
 瞬間的にここを破壊したい衝動に駆られる。
 事実、それだけの力があれば、やっていただろう。
 だが、実体を伴わず、邪眼しか持ち得ない今の自分では、人を惑わすことが精一杯だ。
 そのことも、タシェルの苛々を増す原因になっていた。
 もっと強くなりたい。
 そう何度思い、何度祈ったことか。
 神や悪魔と言う存在が目の前に現れたならば、力をくれと即座に答えただろう。
 自分は無力だ。
 その事実がタシェルを苛む。
 太陽が沈むのを見届け、影のタシェルは一つ溜息をつく。
「二日目の終わり、か……」
「まるでお前の髪のような夕日だな」
 頭上から降ってきた声に跳ね起きる。
 少なくとも、人影はなかったはずだ。声が振ってくる直前までは人の気配もなかったのに。
 あたりを見まわせば、丁度シャナが羽根を広げてログハウスの屋根から降りてくるところだった。
「シャナ……」
 隣に降り立ったシャナを見上げる。
「どうした?……辛そうな表情だな」
 タシェルの頭にぽんと手を置いて、シャナは苦笑した。
「……シャナは……責めないんだね……」
 タシェルは視線を外した。
「……どういう意味だ?」
「……所詮はその程度だってことだろ?」
「その程度?」
 頭上の手を振り払い、タシェルは振り向いた。
「いつだってそうだったじゃないか!おいらが何をやっても、何を壊しても……今でさえ、シャナの記憶をいじっても、怒りもしないじゃないか!おいらのことなんか、どうでもいいんだろ?!」
「……責めて欲しかったのか?」
 急にシャナの声が冷たくなった気がした。
「お前は……何のために生きているのだ?まさか私やアイランを困らせるために生きているわけではあるまい」
「シャナ……」
「お前やお前の弟たち……いや、アイランやシャイレンドルも含めて、お前達の運命を大きく変えてしまったことは私の責任だ。せめて……お前達が自分の望む運命を切り開くことができるよう、全てにおいて優先して動いてきたつもりだ」
 シャナはそこで言葉を切り、目を閉じた。
「……今回のことも、それがお前の望む運命につながるならば……甘んじて受けるつもりだった」
「おいらが望む運命だよ!おいらはシャナが欲しいだけなんだ!」
 闇が降りてくる。
 冷えていく場の雰囲気に、タシェルは上ずりながら答えた。
「おいらは故郷の村でシャナにスカウトされた時から、ずっとシャナを見てきた。アイランじゃない、シャナをだ!凛として誰にも何にも染まらない、誰も触れることのできないシャナを!俺は、あのまま、皆と暮らすあの家でシャナの傍にいられればそれで良かったんだ!でも、アイランと分離したと言う話を聞いて、シャナとの契約が切れたと聞いて……」
「……で?」
 シャナが目を開けた。冷たい目。
「……他の奴と長期の契約をしたと聞いたんだ……。……もう、帰ってくるつもりはないのだろう、とも……」
 タシェルがうつむく番だった。
「それで……私を引きとめようとしたのか」
 シャナの言葉にタシェルは小さく頷いた。
「……私の交わす契約はあくまでも代償を伴う『契約』だ。契約が履行されればそれで終わる。……アイランの時もそうだった。契約が終わった以上、お前達との縁もまた、切るべきだったのかもしれぬな」
 シャナが溜息をつく。
「そんな……」
「タシェル。私は人間と共に同じ時を歩まぬ。……たとえどれほどお前が私を慕ってくれていようと、人間との共生は苦痛の記憶しか残さぬのだ。……お前の望みに応えることはできぬ」
「それでも!」
「できぬ!」
 叩きつけるようにシャナは遮った。悲痛な叫びだった。
「……なら、なんであの人と契約したんだよ……」
 沈黙の後、タシェルは呟いた。
「……それは私の記憶にはない。お前が消したのではないか」
 淡々と、シャナ。その言葉がタシェルには痛く響いた。
「分かったよ。……おいらの知ってるシャナは、もういないんだね……?」
「……少なくとも、ここにはいない」
 冷たい言葉にタシェルはそれ以上の無駄を悟った。
「……会わなきゃ……よかった」
 搾り出すように呟く。シャナは目を閉じ、口を閉ざした。
 それを話の終わりと取ったのか、タシェルの姿はそれきり消えた。


 後ろから歩み寄る気配があった。
 振り向かなくても誰の気配かが察せられる。
「……聞いていたのか」
「……済まない。間の悪い時に来たようだ」
 予想した人物の声。ゆっくりと目を開ける。
「済まぬな……そなたまで巻き込んで……」
「謝る必要はない。……それにお前のことならば、俺にも関係のあることだ。放っては置けない」
 凛とした声に、シャナは振り返った。
 闇に浮かび上がる淡い金髪。白いかんばせ。まっすぐ射るような、真摯な表情。
 受けとめるのが辛くなって、目を逸らす。
「……聞いていたなら……分かるだろう……?」
 小さく溜息をついて、ユッシは目を伏せた。
「我は人間との共生は望まない。……そなたの望む答えは出せないのだ……」
「……本当にそう思っているならば、なぜ人と関わる?」
 シャナが黙る番だった。
「……俺は見たとおりの歳ではない。すでに60年は悠に生きている。これからも、普通の人間よりも長い時を生きるだろう。……人ならぬ身の辛さは多少は知っているつもりだ……お前が人との関わりを躊躇する理由も、想像はつく」」
 一つ溜息をついて、ユッシは続けた。
「……俺は……お前が望まぬことを押しつけるつもりはない。……急いで結論を出さねばならぬ訳でもない。……お前の思うとおりにすれば良い」
 シャナの肩に、ぽんと手を置く。
「……そなたはは……優しいな……」
 肩の力を抜いて、シャナは頭を垂れる。
「どうしてそこまで優しくなれる……」
「お前が大事だからに決まっている」
 ユッシはきっぱりと言い放った。シャナが顔を上げると、ユッシは初めて微笑を浮かべた。
 くすりと笑みを浮かべ、シャナは呟いた。
「そなたの知る我が……そなたに惹かれた訳が分かった気がするな……」
「何のことだ?」
「いや……なんでもない」
 微笑を浮かべ、、それから温泉場全体を見渡した。
「……ここは居心地が良いな……引きとめられてしまう……」
「確かにな」
 つられて夕暮れの温泉場に目をやる。夕日はすっかり落ち、夜へと姿を変えつつあった。
「……アイランとの契約が切れた今、ここにとどまる理由はないのだが……」
 言い淀むシャナに、ユッシは口を開いた。
「理由などなくとも良いのではないか……?ここが気に入ったなら、好きなだけ居れば良い。誰もとがめる者はいない。……ここは俺達のような者でさえ受け入れてくれる、数少ない所だ」
「そうだな……これほど友好的に我を受け入れてくれるところは久々だ……」
 目を細めてカウンターを見やる。昼間の賑わしさを思い出す。
「時が来るまでここにとどまってみるのも悪くないな……」
「そうすれば良い。皆喜ぶだろう」
「ふむ……となると仕事を探さねばならぬな。今のままでは食事さえままならぬ」
「……お前さえ良ければ、仕事を紹介するが。……もっとも、もともとお前がしていた仕事だがな」
「……そなたの負担にならぬか?」
「いや、むしろ手伝ってもらった方が俺は楽になる。ボディーガードの仕事だ」
「ふむ……」
 シャナは暫く考えていたが、小さく頷くと顔を上げた。
「その話、詳しく聞かせてもらえぬか?」
 ユッシは微笑を浮かべた。
「コーヒーでも飲みながら話そう」
「分かった。……そなたの淹れるコーヒーは美味いからな……」
 そう言いながら、シャナはようやく何かが吹っ切れたような気がしていた。



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Since 2002/09/14
Update 2002/09/14
written by アイラン=リウフェン[学籍番号H152471]
シャナ=ディーヴァ